高い山で息が切れるのは、気圧が下がることで、ひと呼吸で肺に入ってくる酸素の分子の数が減るからです。標高3,776mの富士山頂で海面の約3分の2、標高5,000mでは約半分になります。体力の問題ではなく、吸っている空気そのものが「薄い」という物理の問題です。
この記事のポイントは3つあります。①空気中の酸素の「割合」は山頂でも21%のまま変わらないこと。②減っているのは気圧、つまり空気の分子の数であること。③体は数日かけてこの環境に適応でき、それが高山病対策のすべての基本になっていること。標高5,357mのゴーキョ・リまで歩いたときの体感も添えて解説します。
酸素の「濃度」は減らない?——減るのは分子の数
よく「山の上は酸素が薄い」と言いますが、正確に言うと、空気に占める酸素の割合は地上でも標高8,000mでも約21%で一定です。変わるのは気圧です。標高が上がるほど、その場所より上に載っている空気の重さが減るため、気圧が下がります。気圧が下がるということは、同じ体積の空気の中にいる分子の数そのものが少ないということです。
つまり山頂で吸うひと呼吸は、割合としては地上と同じ「21%が酸素」の空気なのに、入っている分子の総数が少ないぶん、手に入る酸素の絶対量が減ります。ジュースの濃さは同じなのに、コップが小さくなっていくイメージです。息が切れるのは当然で、体は減った分を呼吸の回数と心拍数で補おうとします。

国際標準大気(世界共通の大気モデル)で計算すると、気圧は富士山頂で海面の約64%、標高5,357mのゴーキョ・リで約51%、エベレスト山頂で約31%です。エベレスト山頂のひと呼吸は、地上の3分の1回分の呼吸でしかありません。無酸素登頂という言葉の重みが、この数字だけで伝わってきます。
標高5,000mのひと呼吸は、地上の半分だった
数字の話だけでは実感が湧かないので、体感の話をします。ネパール・クンブ地方をゴーキョまで歩いたときのことです。
最初の関門は標高3,440mのナムチェバザールでした。村の中の石段を登るだけで息が上がります。荷物を置いて手ぶらで宿の階段を上がっても、踊り場で一度止まる。地上なら鼻歌の距離です。「体力が落ちたのか」と一瞬疑いますが、犯人は自分ではなく気圧でした。ここですでに空気は地上の約3分の2です。
標高4,750mのゴーキョから、5,357mのゴーキョ・リへの登りが本番でした。標高差約600m。日本の感覚なら2時間弱の登りです。実際には、20歩歩いては立ち止まって呼吸を整える、の繰り返しになりました。ペースを上げようとしても、肺と心臓が即座に拒否権を発動します。地上の51%の空気では、「頑張る」という選択肢自体が没収されるのだと知りました。

高山病はなぜ起きるのか?
高山病は、体が酸素不足の環境に適応しきれていないときに出る症状の総称です。日本登山医学会などの資料によると、代表的な症状は頭痛・吐き気・食欲不振・めまい・睡眠障害で、一般に標高2,500mを超えるあたりから起こりやすくなるとされています。つまり富士山は、日本で唯一、誰でも高山病の「本番環境」に入れる山です。実際、富士山では発症は珍しくありません。
重要なのは、高山病のリスクを決める最大の要因が「どれだけ高いか」ではなく「どれだけ速く高度を上げたか」であることです。体には適応の仕組みが備わっていますが、それには時間がかかります。夜行バスで五合目に着いてそのまま山頂を目指す弾丸登山が危険とされるのは、この適応の時間を完全にスキップしてしまうからです。
体は慣れる——高所順応という仕組み
低酸素環境に数日間さらされると、体は呼吸を深くし、やがて赤血球を増やして、少ない酸素を効率よく運ぶ体制に切り替わっていきます。これが高所順応です。ヒマラヤのトレッキング行程が異様にゆっくり組まれているのは、観光のためではなく、この生理的な工事期間を確保するためです。
私の行程でも、テンボチェ(約3,860m)やその先の村で泊まりを重ね、1日の高度上昇を数百mに抑えながら登りました。面白いのは帰り道です。行きにあれほど苦しかったナムチェの石段が、下山時にはただの階段に戻っていました。標高3,440mが「空気の濃い場所」に感じられるようになっていたわけです。人体の適応力は、数字で見る以上に頼もしいものでした。テンボチェ周辺の様子はテンボチェ僧院と標高3,800mの大地に書いています。
ちなみに、登山の世界で言われる「高く登って低く眠る」は、この順応を効率よく進めるための古典的なコツです。日中に高い場所まで足を延ばして体に刺激を入れ、夜は低い場所に戻って眠る。ゴーキョ・リのような展望の丘は、絶景ポイントであると同時に、順応のための実用的な装置でもあります。
気圧が下がると、ご飯までまずくなる
気圧の低下が変えるのは呼吸だけではありません。水の沸点も下がります。水は気圧が低いほど低い温度で沸騰するため、富士山頂ではおよそ87〜88℃、標高5,000mでは約83℃で沸騰してしまいます。ぐらぐら煮えたぎっているのに、温度は足りていない。ヒマラヤのロッジで食べた米がどこか芯のある炊き上がりだったのは、調理人の腕ではなく物理法則の仕業です。圧力鍋という道具は、この問題を人工的に気圧を上げて解決する発明で、高所の食堂ではまさに必需品になっています。
ほかにも、未開封のポテトチップスの袋が標高とともにパンパンに膨らんでいく現象は、登山者にはおなじみです。袋の中に閉じ込められた地上の気圧が、外の薄い空気に対して勝っている状態で、いわば手のひらサイズの気圧計です。体の内側でも同じことが起きていて、耳が詰まった感じになるのも、気圧差を体が調整している音です。
登山者が使える実践ポイント
この記事の内容を富士登山に置き換えると、そのまま実践的な対策になります。五合目(約2,300m)で1〜2時間過ごしてから登り始める。山小屋で一泊して高度を上げる時間を体に与える。水分をよくとり、ペースを「会話できる速さ」に抑える。どれも根拠は同じで、体の適応速度に行程を合わせるということです。逆に、頭痛や吐き気が出たときに唯一確実に効く対処は「高度を下げること」です。症状をこらえて登り続けるのは、原因をそのままにして結果と戦う行為なので、勝ち目がありません。
気圧は標高とともに確実に下がりますが、気温も同じように下がっていきます。山の上がなぜ涼しいのか、そしてヒマラヤの高峰になぜ雪が積もり氷河が生まれるのかは、ゴーキョ・リから見た氷河の世界とエベレストの山頂は海底だったで解説しています。8,849mという標高そのものが、インド大陸の衝突が5,000万年かけて作った数字です。



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