2026年8月26日の朝、ネパール北部のラスワ郡で大規模な鉄砲水が発生しました。中国・チベット自治区との国境に接する谷が濁流に飲まれ、村や橋、水力発電所が流されています。26日時点の発表で死者8人、観光客384人が行方不明。国内の発電設備の8分の1にあたる約430メガワット分が被害を受けたと報じられています。
不思議なのは、この谷では前の24時間に雨がほとんど降っていなかったことです。台風でも豪雨でもないのに、午前9時ごろ、川が突然ふくれあがりました。原因はまだ確定していません。ネパールと中国の当局が衛星データを突き合わせて発生源を探している最中です。ただ、専門家が真っ先に疑ったのが氷河湖決壊洪水でした。英語では Glacial Lake Outburst Flood といい、その頭文字をとってGLOF(グロフ)と呼ばれます。直訳すれば「氷河湖が破裂する洪水」です。
山の上にたまった水が、ある日いきなり抜ける。それだけの話なのですが、規模が人間の感覚から完全に外れています。この記事では、その仕組みを順番に見ていきます。

雨が降っていないのに、川が3倍にふくれる
今回の現場は、カトマンズから北へ車で6〜9時間ほど走った国境の谷です。ボテコシ川という川が、チベット側からネパール側へ流れ下っています。この川が氾濫するのは、実は1年ちょっとで2度目です。前回は2025年7月8日、このときはチベット側の氷河湖が決壊したとみられ、両国を結ぶ「友好橋」が流失しました。
今回の原因については、いまのところ二つの見方が出ています。一つは前回と同じくチベット側の氷河湖が決壊したという説。もう一つは、ネパール側の氷河から氷と岩の崩落が起き、それが支流のレンデ・コラをせき止め、たまった水が一気に抜けたという説です。地震が引き金になった可能性も指摘されています。
どの説になっても、共通しているのは「雨は関係ない」という点です。日本の水害の感覚だと、川が増水するのは雨が降ったからです。上流のダムの放流量を見て、雨雲レーダーを見て、身構える時間があります。ところが山の上に水をためている犯人が氷河だと、その予告編がありません。

氷河湖決壊洪水(GLOF)とは何か
GLOFを一言でいえば、山の上の湖をせき止めていた天然のダムが壊れて、たまっていた水が一気に流れ下る現象です。ポイントは、このダムがコンクリートでも岩盤でもないところにあります。
氷河は流れながら岩を削り、削ったかけらを下流へ運びます。氷河の末端まで来ると氷は解け、運ばれてきた岩と砂だけがその場に残ります。これが何百年、何千年と積み重なると、谷を横切る堤防のような高まりができます。モレーンと呼ばれる地形です。日本の山でも氷河が削った跡は残っていて、その読み方はカール・U字谷・モレーンとはでまとめています。
問題は、温暖化で氷河が痩せていくと、退いた氷のあとに水がたまり、この砂利の堤防が湖のダムとして働きはじめることです。しかもこの堤防は、人が突き固めたものではありません。ただ積み上がっただけの砂と礫で、内部には解け残った氷まで含まれています。ダムの中に氷が入っているという時点で、耐久性の話としてはかなり危ういわけです。

引き金は「水が増えること」ではない
ここが直感に反するところなのですが、湖が決壊する引き金は、たいてい水位がじわじわ上がることではありません。上の斜面から氷や岩が湖に落ちることです。
巨大な質量が湖に飛び込むと、押し出された水が波になります。数十メートルの高さになることもあります。その波が砂利の堤防を乗り越えると、乗り越えた水が堤防の表面を削りはじめます。削れて溝ができると、そこに水が集中してさらに削れる。この暴走が始まると、数十分で堤防に大穴が開きます。あとは湖の水が全部そこから抜けていくだけです。
実例を挙げます。1985年8月4日、エベレスト街道のディグ・ツォという湖で、上流の氷河から氷の塊が崩れ落ちました。押し出された波がモレーンを乗り越えて堤を切り裂き、数百万〜1千万立方メートルと見積もられる水と土砂が数時間で流出。下流で完成間近だった水力発電所が跡形もなく消え、橋やトレイル、農地の被害は数十km下流にまで及びました。この一件がきっかけで、ヒマラヤの氷河湖は本格的な研究対象になりました。
もっと近い例では、2023年10月にインド・シッキム州のサウス・ロナク湖で起きた決壊があります。凍りついた側面の堆積物が約1,470万立方メートルまとめて崩れ、高さ20mの波が発生。約5,000万立方メートルの水が抜け、下流にあった高さ60mの発電用ダムが破壊されました。このときのピーク流量は毎秒48,500立方メートルと推定され、下流を含めて178人が犠牲になりました。
引き金は落ちてくるものだけではありません。地震の揺れで堤が緩むこともあれば、堤の中に残っていた氷が解けて内部に水みちができ、そこから崩れることもあります。ヒマラヤはインド大陸が衝突を続けている場所で、地震そのものが多い土地です。揺れが斜面を崩し、崩れたものが湖に落ちる、という連鎖も起こりえます。今回のラスワの鉄砲水でも、地震が最初の引き金になった可能性が指摘されています。
この数字にピンとこないので、日本の川と並べてみます。

利根川で洪水対策の基準になっている流量が毎秒22,000立方メートル、木曽川で毎秒9,700立方メートルです。国が何十年もかけてダムと堤防を積み上げて備えている量の、2倍以上の水が山の谷を走ったことになります。しかも堤防も遊水地もない、幅数十メートルの谷をです。
氷河の上には、いつも水がたまっている
ここからは自分が歩いた場所の写真で説明します。ネパール東部、エベレストの西隣にあるゴジュンバ氷河です。全長36km、ネパール最長の氷河で、標高5,360mのゴーキョ・リという丘に登ると全体を見下ろせます(そのときの記録はゴーキョ・リから見た氷河の世界に書きました)。
下の写真が、その氷河の表面です。白くありません。灰色の砂利が一面に広がっているだけで、氷河だと言われなければ河原にしか見えません。表面が厚いところで1〜2mの岩くずに覆われていて、その下に数十メートルの氷が隠れています。実際にこの上を歩いていると、足元が氷だという実感はまったくありません。ひたすら歩きにくい砂利道です。

そして、この岩くずだらけの氷河の上には、あちこちに池があります。氷が解けた水が窪みにたまったものです。5月初旬の昼過ぎに歩いたときも、標高4,800m前後の氷河の上に、大小の池が点々と光っていました。

この池が曲者です。氷河の表面を覆う岩くずは断熱材として働き、その下の氷を守ります。ところが池ができると話が変わります。水は太陽の熱をため込み、その熱を接した氷に直接渡すので、池の底や縁だけが周囲より速く解けていきます。池は広がり、隣の池とつながり、また広がる。こうして氷河の上の水たまりが合体を繰り返し、最終的に末端部に大きな湖ができあがります。
ゴジュンバ氷河の末端にも、すでにそれなりの大きさの湖ができています。翌朝の下山中に見たのが下の写真です。左右の砂利の斜面はすべて氷河が運んだ堆積物で、崩れて湖に落ちれば波が立ちます。

歩いているときは「きれいな池だな」で終わっていました。同じ池を、下流の村の人は違う目で見ているはずです。
危険な湖は47。しかも小さな湖でも村は消える
2020年に国際総合山岳開発センター(ICIMOD、本部カトマンズ)と国連開発計画がまとめた調査では、ネパール中東部を流れる3つの大河川の流域に、決壊の危険がある氷河湖が47あるとされました。内訳はネパール側に21、中国側に25、インド側に1です。そのうち42はコシ川の流域に集中しています。エベレスト街道もゴジュンバ氷河も、このコシ川流域です。
世界全体では、氷河湖の決壊で被害を受けうる場所に約1,500万人が暮らしていると見積もられています(2023年のNature Communications誌の研究)。半数以上がインド、パキスタン、ペルー、中国の4か国に集中しています。
そして厄介なことに、「小さい湖なら大丈夫」とは言えません。2024年8月16日、エベレスト街道のターメという村が、上流の湖の決壊で半分ほど流されました。このとき決壊した湖の面積は、わずか0.05平方キロメートル。200m四方の池です。学校も診療所もホテルも流されました。
200m四方の池が村を流すというのは、ちょっと受け入れがたい話です。ただ、標高5,000m近い湖から村まで、水は1,000mを超える落差を落ちてきます。落ちながら谷底の土砂を巻き込んで、泥と岩の混じった重い流れに変わります。到達したときにはもう水ではなく、動く土砂の塊になっているわけです。

対策は「湖の水位を下げる」しかない
ではどうするか。堤防を補強するという発想は、標高5,000mの現場では現実的ではありません。重機も資材も上げられません。実際に行われている対策は、身も蓋もないですが湖の水を減らすことです。
ネパール最大級の氷河湖ツォロルパでは、1998年から2000年にかけて長さ70mの水路を掘り、水位を3m下げる工事が行われました。標高4,500mを超える現場での土木工事です。あわせて下流の村に警報装置も設置されましたが、こちらはその後、維持されずに使えなくなりました。エベレスト街道のイムジャ湖でも2016年、ネパール軍が中心になって水位を3.4m下げています。こちらは標高5,000m。湖の水位を数メートル下げるためだけに軍が動員される世界です。
もう一つの柱が早期警報です。ただし今回のラスワの鉄砲水では、発生から集落到達まで1時間もありませんでした。上流が国境の向こう側だと、そもそも観測データが即座に共有される保証もありません。「警報が鳴ってから逃げる」には、逃げる先が高台にあることが前提になります。
日本の山で同じことは起きるのか
結論から言えば、日本でGLOFは起きません。日本にも氷河は現存していて、北アルプス北部に10カ所が確認されていますが(日本に氷河はいくつある?)、いずれも長さ数百メートル規模で、末端に湖をつくるほどの水を出しません。ヒマラヤの36kmの氷河とは桁が違います。
ただし、「山の上でせき止められた水が、天然のダムを壊して一気に流れ下る」という現象そのものは、日本でも起きます。犯人が氷ではなく土砂だというだけです。2011年の紀伊半島の豪雨では、深層崩壊で崩れた土砂が川をせき止め、17か所で河道がふさがれました。決壊すれば下流は同じことになるため、国が排水路の掘削などの緊急対策に入っています。やっていることは、標高5,000mのイムジャ湖とほぼ同じです。
登山者の実感に近いところまで落とすと、こういう話になります。晴れているのに沢が濁って増えたら、上流で何かが起きています。雨が降っていないことは安全の保証になりません。日本の沢で言えば上流の崩壊や、堰き止めの決壊です。渡渉のタイミングでこれに当たると、判断の時間はほとんどありません。
ヒマラヤの氷河湖の話は、遠い国の災害に見えます。ただ仕組みだけを取り出せば、「山の中に不安定な形で水がたまっている」というだけの、どこにでもある条件です。規模がけた違いなだけで。
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