早朝5時、まだ暗い中を出発して岩場を約1時間登ると、標高5,360mのゴーキョ・リ山頂に出ます。エベレスト、ローツェ、マカルー、チョ・オユー——4座の8,000m峰が並ぶ光景は確かに予想を超えていましたが、そこへ向かう足取りがそれほど軽かったわけではありません。酸素が平地の半分しかない場所で岩場を1時間登るというのは、文字で書くより実際のほうがだいぶきついです。息を吸っても吸っても追いつかない感覚のまま、ただ歩幅を小さくして登り続けました。
その山頂から眼下に横たわっているのがゴジュンバ氷河です。全長36kmという数字は地図上では把握できますが、5,000mを超えた場所から実際に見下ろすと、スケールの感覚がうまく追いつきません。あれが全部氷だというのは、後述する理由で見た目からはまったくわかりません。

ネパール最長・36kmの巨大氷河
ゴジュンバ氷河(Ngozumpa Glacier)は全長約36km、ネパールで最も長い氷河です。世界第6位の高峰・チョ・オユー(8,188m)の麓を源頭に、標高4,700m付近まで流れ下っています。
山頂から見下ろしてまず気になるのは、氷河の表面が白くないことです。真っ白な雪原を想像していると面食らいます。実際の表面は灰色から茶色で、岩屑(がんせつ)に覆われています。これをデブリ被覆氷河と呼びます。氷河の表面に数メートルの厚さで岩石・砂・シルトが堆積しており、ぱっと見は「ただの岩場」にしか見えません。その下に数十メートルの氷が隠れているというのは、現地では直感的にはわかりません。実際にモレーンの上を歩いていると、これが氷の上だという確信は全くないまま何時間も過ごすことになります。足元の岩を踏むたびに「これは地面なのか氷の上なのか」という問いが浮かびますが、歩いている間は答えが出ません。

モレーンが語る氷河の歴史
ゴジュンバ氷河の両脇には、まるで巨大な堤防のようにラテラルモレーン(側堆石)が連なっています。モレーンとは、氷河が岩盤を削りながら運んだ岩石や砂礫が堆積してできた地形のことで、氷河がかつてどこまで広がっていたかを示す痕跡でもあります。
トレイルはこのモレーンの尾根上を通っているため、実際に歩くと足元がゴロゴロした岩だらけで、地図上の「稜線歩き」のイメージとはかなり乖離があります。一つ一つの岩が氷河に上流から運ばれてきた「荷物」だと思えば無意味な岩場ではなくなるのですが、足首が悲鳴を上げている状況でそこまで思いを馳せるのはなかなか難しいです。
氷河の末端部にはターミナルモレーン(末端堆石)が形成されています。これは氷河が最大に拡大していた時期の先端位置を示す地形です。ゴジュンバ氷河のターミナルモレーンは構造が複雑で、過去の氷河の前進・後退と、後述する氷河湖決壊洪水(GLOF)の痕跡が重なり合っていることが研究によって明らかになっています。

ゴーキョ湖 — 世界最高所の淡水湖群
ゴジュンバ氷河の融水が生み出したのが、6つの湖からなるゴーキョ湖群です。標高4,700〜5,000mに点在するこの湖群は、世界最高所の淡水湖システムとして知られています。
湖水のターコイズブルーの色は、氷河が岩盤を削る際に生成される微細な岩石粉——氷河粉(グレイシャルフラワー)によるものです。粒径が0.002〜0.06mmときわめて小さいため水中に浮遊し続け、太陽光の青緑色の波長を選択的に散乱させます。あの色の正体が「岩の粉末」というのはやや夢のない話ですが、事実です。氷河が今まさに岩盤を削り続けているから、あの青が維持されています。
ゴーキョ湖群は、ラテラルモレーンがダムの役割を果たして融水をせき止めたモレーンダム湖に分類されます。堆石が自然のダムになっているわけで、モレーンが崩れれば湖ごと決壊します。美しさとリスクが同じ構造から来ているというのが、氷河湖というものの厄介なところです。
拡大するスピルウェイ湖と氷河湖決壊のリスク
近年、ゴジュンバ氷河の末端部にスピルウェイ湖と呼ばれる新たな氷河湖が急速に成長しています。1984年から1992年の間に氷河内部の水路が崩壊して水が溜まり始め、現在も拡大を続けています。
この湖が懸念される理由は、モレーンダムの内部にまだ氷河氷のコア(芯)が残っていることです。気温上昇によってこの氷コアが融解すると、ダム本体の構造が不安定になり、氷河湖決壊洪水(GLOF: Glacial Lake Outburst Flood)が起きる可能性があります。GLOFは下流域に壊滅的な被害をもたらす自然災害で、ヒマラヤ全域で監視体制の整備が進んでいます。ただし根本的な解決策は、気温上昇を止めることに行き着きます。湖の美しさの話をしていたつもりが、最終的に気候問題に着地するというのが、現在のヒマラヤの実情です。

氷河は後退している — この100年の変化
ゴジュンバ氷河はこの100年で1.5km以上後退したと報告されています。後退の速度は近年加速しており、地球温暖化の影響を直接的に反映しています。
氷河の後退は「氷が減る」だけの話ではありません。ゴーキョ湖群を含む下流域の水資源、農業用水、水力発電への影響が連鎖的に生じます。ヒマラヤの氷河は「アジアの水がめ」とも呼ばれ、10億人以上の生活を支える水源です。氷河が1.5km後退するということは、その貯水量が1.5km分減っているということでもあります。
ゴーキョ・リから見下ろすと、氷河の末端付近で露出した岩盤がかつて氷の下にあった場所だとわかります。その境界線が、100年分の記録です。山頂に立ってそれを知ってしまうと、眼下の風景がひとつの証拠写真に見えてきます。早朝から1時間岩場を登ってきて、ようやく辿り着いた山頂で目にするものが「後退の記録」というのは、少し複雑な気持ちになります。

プレート衝突と氷河侵食 — 二つの力が作った風景
ゴーキョ・リから見える風景は、大きく言えば二つの地球の力が重なってできています。一つはインドプレートとユーラシアプレートの衝突による隆起、もう一つは氷河による侵食です。プレート衝突でまず地形が持ち上がり、その後に氷河が削って現在の稜線の形ができあがりました。エベレストやローツェの鋭い山頂も、この二段構えのプロセスの産物です。
インドプレートは年間数cmのペースで北上を続けており、ヒマラヤは現在も年間数mmのペースで隆起しています。一方で氷河は後退しています。隆起と侵食のバランスが変化しつつある現場に自分が立っているという事実は、5,000mを超えた場所で酸素が薄くなった頭で処理するには少し情報量が多いです。プレートが動き続けているという話と、氷河が縮んでいるという話を同時に受け取りながら、それでも下山後はゴーキョの村でダルバートを食べるわけで、スケール感の振り幅が激しい一日になります。
ヒマラヤが生まれた大陸衝突のプロセスについては、ヒマラヤはなぜ高い?— エベレスト街道で見る大陸衝突の痕跡で詳しく扱っています。また、日本の氷河地形に興味があれば立山の地質もあわせて読んでください。
氷河や火山など、スケールの大きな地球のダイナミクスをテーマにした記事は山の地質カテゴリにまとめています。



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