シカは、高山植物を食べる動物であると同時に、山を削る営力になっています。南アルプスの高山帯では、地面を覆う草が食べられ、蹄で踏み荒らされることで土がむき出しになり、雨のたびに流出しています。仙丈ヶ岳で行われた実測では、シカを柵で締め出した区画に対して、シカが入る区画の土砂流出量は夏で6.2倍でした。同じ斜面、同じ雨量、違いはシカがいるかどうかだけです。
この記事のポイントは3つあります。①環境省がヘリから撮影したシカの群の動画を公開し、専門家を含む関係者が想定を超えたと認めたこと。②シカの影響は植物だけでなく土壌の流出として測定されており、標高が高いほど差が大きく出ること。③その一方で、コケが地面を守っていた場所では差がほとんど出なかったこと。
環境省が「衝撃を受けました」と書いた
2026年8月27日、環境省の南アルプス国立公園公式アカウントが、ヘリコプターから撮影されたシカの群の動画を公開しました。撮影は東邦航空です。
投稿の書きぶりが、行政の発信としてはかなり異例でした。
一報をくれた山小屋の管理人さんも、南アルプス国立公園シカ担当も、シカを知り尽くしたハンターさんも、有識者の先生方も…関係者一同、衝撃を受けました。
山小屋の管理人、担当職員、ハンター、研究者。この山域を最もよく知っている四者が、そろって想定を超えたと表明しています。そのうえで「シカ対策をする上で様々な”壁”がありますが、関係機関で連携してより捕獲圧を強められるよう頑張っていきます」と続きます。対策が現状では追いついていない、と当局が自分で書いているわけです。
動画そのものは著作権の関係でここには載せられませんが、Instagramで「南アルプス国立公園」または @minamialps_nationalpark を検索すれば見られます。斜面が茶色い点で埋め尽くされている映像で、本当に驚きます。この記事でこれから数字を並べますが、あの数十秒を見るほうが早いかもしれません。
シカの話は「かわいそうな高山植物」という文脈で語られがちですが、地学の側から見ると別の顔があります。シカはいま、山を削る側に回っています。
シカはなぜ稜線まで上がってきたのか?
大きく3つの理由が重なりました。狩る人が減ったこと、暖冬と少雪で冬を越せる個体が増えたこと、そして数が増えた結果、里山や低山の下草だけでは養いきれなくなり、押し出されるように分布が上へ広がったことです。
環境省関東地方環境事務所の解説によると、南アルプスで稜線付近にシカが現れるようになったのは平成10年(1998年)頃からで、そこから急激に増えました。人がシカを捕らなくなったことで個体数が増え、生息域を里山から高山帯へ広げたという流れです。
そこに気候の変化が乗ります。冬が以前ほど寒くなくなり、積雪量も減ったことで、冬を越せずに死ぬ個体が減りました。シカにとって冬の雪は、餌を隠すと同時に体力を奪う最大の関門です。その関門が緩めば、単純に生き残る数が増えます。雪が減って喜んでいるのはスキー場だけではなかった、ということになります。
長野県の中央アルプスから南アルプスにかけては、1平方キロメートルあたり50頭を超える密度の場所がすでにあり、山肌が丸裸になった斜面も出ています。
標高が生き物の分布を決める話は、森林限界はなぜ2,500mなのかでも書きました。木が生きられる高さには物理的な上限がありますが、シカにはその上限がありません。木が育たない場所にも、草さえあれば行けてしまいます。
柵ひとつで、土砂の流出が6分の1になった
シカが土を流しているという因果関係は、仙丈ヶ岳(3,033m)で実際に測られています。信州大学と伊那市の研究グループ(吉村綾・北原曜・小野裕)が砂防学会で報告した実験です。
方法は素朴で、そのぶん説得力があります。斜面に長さ3.5m、幅1.2mの枠を2つ並べ、片方だけを高さ1.6mの柵で囲います。柵の中はシカが入れない「排除区」、囲わない方は「侵入区」です。枠の下端に土砂受け箱を置き、流れ出た土を月に2〜4回回収して、乾かしてから重さを量ります。同じ斜面に並べているので、雨も気温も傾斜も同じ。違いはシカが入るかどうかだけです。
標高を変えて4か所、さらにシカの少ない中央アルプスに比較用の1か所を設けました。夏の土砂流出量を、排除区に対する侵入区の倍率で並べるとこうなります。

| 調査地 | 標高 | 侵入区は排除区の何倍か |
|---|---|---|
| 小沢(中央アルプス・比較用) | 860m | 0.8倍 |
| 戸台 | 1,020m | 4.1倍 |
| 白岩 | 1,340m | 4.5倍 |
| 大平 | 1,960m | 1.4倍 |
| 馬ノ背 | 2,640m | 6.2倍 |
いちばん標高が高い馬ノ背で6.2倍。ここはかつてお花畑だった場所で、いまはシカが食べない植物ばかりが広がっています。逆にシカの少ない中央アルプスの小沢では0.8倍、つまり有意な差が出ていません。
柵を1枚立てるだけで、流れ出る土が6分の1になる。裏を返せば、柵がない場所では6倍の土が流れ続けているということです。
なぜ高山帯でいちばん効くのか?
雨が強いことと、そもそも植物が薄いことの2つが重なるからです。
高山帯は雨量も雨の強さも大きく、地面を叩く力が強い場所です。そこに、地面を覆う草が減るという条件が加わります。低い場所の森なら、落ち葉が積もった層がクッションになって雨粒の衝撃を受け止めますが、稜線近くにはその蓄えがありません。もともと薄い守りが少し剥がれるだけで、影響が一気に出ます。
面白いのは例外が出たことです。標高1,960mの大平だけは1.4倍にとどまりました。ここは林床をコケが覆っていて、コケが土を網のように締めつけて流出を抑えていたためです。研究チームは、コケが土壌を緊縛することでシカの踏み荒らしの影響も減らしていると考察しています。地味な見た目の割に、コケはかなり有能な土木作業員でした。
冬になると順番が入れ替わります。冬の流出量は、標高1,020mの戸台で24.0倍まで開く一方、高山帯の馬ノ背では1.3倍まで縮まりました。馬ノ背は雪が深く、雪に覆われている間は土が流れないからです。逆に戸台は、高いところにいたシカが冬に降りてくるうえ、雪がほとんど積もらないため、土が凍って緩む現象が繰り返し起きます。凍って持ち上がった土は、緩んだときに落ちます。それをシカが踏んで散らかす、という構図です。
雪が土を守っているという関係は、少し意外かもしれません。冬の高山帯では、雪は邪魔者ではなく蓋です。
日本の山は、もともと世界最速級に削られている
ここで一歩引くと、この6.2倍という数字の位置づけが見えてきます。
宇宙から降る放射線が岩に作る特殊な元素を測ると、その岩がどれだけ削られたかがわかります。この手法による研究では、日本の山地が削られる速さは年0.5〜3.5mm。同じ手法で世界中の流域を集計した研究では、世界の中央値は年0.054mmです。日本の山は、世界の標準の10倍から60倍の速さで削られています。
つまり日本の山は、シカが来る前からすでに世界有数の速さで削られていました。そこに、地面の草を刈って土をむき出しにする動物が新しく加わったことになります。急峻な地形、多い雨、そしてシカ。削る側の役者が1つ増えました。
ここは正確に書いておきます。6.2倍というのは、3.5m×1.2mという小さな枠で測った表面の土の流出量であって、山全体が6.2倍の速さで低くなっているという意味ではありません。 山を削る主役はいまも川と崩壊です。ただ、稜線付近の土壌という、いちど失われると回復に数百年かかる薄い層が、測定できる速さで減っているという事実は動きません。
高山帯の土は、氷期以降の1万年ほどかけて少しずつ溜まったものです。溜めるのに1万年、流すのに数十年。地球の収支としてはかなり分の悪い取引です。
鈴鹿でも、同じ光景を見た
南アルプスだけの話ではありません。
私が三重県と滋賀県の境にある竜ヶ岳(1,099.6m)に登ったのは初夏の早朝で、山頂の手前で笹原に出たときのことでした。斜面一面に、茶色い点が散らばっています。最初は岩か何かだと思ったのですが、双眼鏡を出すまでもなく、点が動いていました。数えたら49頭いました。朝の斜光を浴びて、笹の緑と体の茶色がくっきり分かれていました。
写真を撮って7分後には山頂に着いていたので、群れは登山道のすぐ脇にいたことになります。人を恐れる様子はありませんでした。手元にあったのはiPhoneだけで、デジタルズームを4.3倍まで引き伸ばして撮ったので、写真はかなり粗いです。どこにいるのか分かりにくいので、確認できた個体に赤丸を付けました。稜線近くだけでなく、手前の斜面にも同じだけいます。

南アルプスの水がなぜ甲斐駒ヶ岳の花崗岩から生まれるのかは「南アルプスの天然水」はなぜ甲斐駒ヶ岳から生まれるのかに書きましたが、その水を溜める森と土壌もまた、いま削られる側にいます。
このときは「鹿がいる、めずらしい」で終わったのですが、南アルプスの数字を知ってから見返すと、写真の意味が変わります。この笹原がなぜ笹だけなのか、なぜ木が生えていないのか。答えの一部は、写っている当人たちが持っています。
動物の分布が地形や気候で決まる話は、ツキノワグマはなぜ東日本に多いのかでも扱いました。クマの分布は雪とブナ林が決めていますが、シカの分布はいま、その制約から外れつつあります。
登山者として、何が見えるか
現地で見分けられるサインがいくつかあります。
ひとつは、花の種類が妙に偏っている場所です。シカが食べない植物だけが残ると、一見すると緑は豊かなのに、花の顔ぶれが単調になります。「お花畑」と地図に書いてあるのに花が少ない場所は、たいていこれです。
もうひとつは、斜面を等高線に沿って走る細い道です。登山道ではないのに踏み固められた筋が何本も並んでいたら、シカ道の可能性があります。人間の登山道が尾根や谷に沿って上下方向に伸びるのに対し、シカ道は横方向に伸びるので見分けがつきます。
そして柵です。南アルプスの北岳周辺や荒川岳のお花畑には、防鹿柵が設置されて植生が回復しつつある場所があります。柵に出会ったら、中と外を見比べてみてください。数メートル離れているだけで植物の量が違うはずです。あの実験の6.2倍が、目の前にあります。
登山道から外れないでほしいという掲示も、同じ文脈にあります。北岳の山頂直下から北岳山荘、八本歯の頭にかけては、キタダケソウの保護のために毎年6月1日から11月30日まで立ち入りが制限されています。踏まれて薄くなった地面から土が流れるという点では、人間もシカと同じことをします。差があるとすれば、人間は掲示を読めるということくらいです。
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