南アルプスの山をいくつか登っていると、北端にひときわ異質な稜線が目に入ります。鋸の歯のようにギザギザと尖った、見るからに登りにくそうな岩の連なり。それが鋸岳(のこぎりだけ)です。名前からして穏やかではありません。実際、南アルプスの登山道を難易度で格付けしたグレーディング表で、鋸岳は唯一のE難易度——最難関に指定されています。
標高は2,685m。日本二百名山であり山梨百名山でもありますが、その看板の華やかさとは裏腹に、登るには岩登りの技術と度胸が要ります。9月のある日、この鋸の歯を越えて最高地点である第一高点をめざしてきました。その記録です。
鋸岳とはどんな山か
鋸岳は赤石山脈(南アルプス)の北端、甲斐駒ケ岳のすぐ隣に位置しています。登山口は長野県側の戸台川が一般的で、そこから角兵衛沢などの沢沿いを詰めて稜線に上がります。どのルートを選んでも一般登山道とは呼べない世界で、ガレ場の急登と岩場の通過が連続します。
「鋸」という名前は、稜線がのこぎりの刃のように小さなピークを連ねていることに由来します。地図上では一本の尾根に見えても、現地では登っては下り、また登るという上下動の繰り返しで、見た目以上に体力と時間を削られます。隣の甲斐駒ケ岳が白い花崗岩の堂々とした山だとすれば、鋸岳は同じ白い岩を、刃物のように尖らせた山だと言えます。

白い砂礫の稜線を行く
沢を詰めて稜線に出ると、足元が一気に白っぽくなります。花崗岩が風化してできた砂礫で、歩くたびにザクザクと音を立てて崩れます。見た目は明るく気持ちのいい稜線ですが、急斜面ではこの砂が滑り、思うように足が決まりません。明るい色に油断していると、足を取られてヒヤリとさせられます。
前方には、これから越えていく岩峰が見えています。緑の樹林の上に灰白色の岩がむき出しになった、いかにも手強そうな姿です。「あそこを登るのか」と思うと気が引き締まりますが、同時に、あの岩のてっぺんに立てるのだと思うと足が前に出ます。山があるから登るのか、登りたいから山に向かうのか——こういう山を前にすると、その問いはどうでもよくなって、ただ目の前の一歩に集中することになります。
鎖場とガレ場の連続
鋸岳の核心は、なんといっても岩場の通過です。垂直に近い岩には鎖がかけられ、上に登ったかと思えば今度は下り、岩の側面をへつるように進む区間もあります。事前に読んだ山行記録に「忍者もびっくり」という表現がありましたが、実際に取りついてみると、その言葉に大げさなところはありませんでした。
鎖場以上に神経を使ったのが、崩れやすいガレ場でした。斜面いっぱいに浮石が積もっていて、一歩踏み出すたびに岩が動きます。下を覗き込むとそのまま吸い込まれそうな高度感で、鎖を握る手につい力が入ります。こういう場所では、登っている最中はむしろ無心です。怖いと感じる余裕すらなく、ただ次の足場と手がかりを探し続けます。怖さがじわじわ込み上げてくるのは、たいてい難所を抜けて一息ついたあとです。

第一高点 2,685mへ
いくつもの岩場を越え、ようやく鋸岳の最高地点である第一高点に着きました。山頂は岩がごろごろと積み重なった狭い場所で、ガレた岩の間に「鋸岳 第一高点 2685m」と記された古い標識が斜めに立っていました。豪華な山頂標識ではありませんが、ここまでの道のりを思うと、その素っ気なさがかえって誇らしく見えます。

この日は雲が多く、展望は開けたり閉じたりを繰り返していました。雲の切れ間からは、隣の甲斐駒ケ岳へ続く稜線や、足元から湧き上がる雲海が見えます。苦労して登った山頂で雲海に出会うと、それまでの緊張がほどけて、思わず長居をしたくなります。雲が稜線を駆け上がってきては、また谷へ落ちていく。その動きをぼんやり眺めているだけで、ずいぶん時間が経っていました。

なぜ鋸岳はこれほど険しいのか
下山しながら、ふと「なぜ同じ南アルプスでも、鋸岳だけがこんなにギザギザなのか」と考えました。その答えは、足元の白い岩——花崗岩にあります。
鋸岳や甲斐駒ケ岳をつくる花崗岩は、もともと地下深くでマグマがゆっくり冷えて固まった岩石です。それが南アルプス全体の激しい隆起によって地表に持ち上げられ、長い年月のあいだ侵食にさらされてきました。花崗岩は硬い部分ともろい部分が入り混じっていて、もろい部分から先に削られていきます。その結果、硬い岩だけが取り残されて、刃物のように尖った稜線ができあがりました。甲斐駒ケ岳の白い岩肌も同じ花崗岩ですが、鋸岳はその侵食がより極端に進んだ姿だと言えます。

南アルプスが今も年に数mmずつ隆起し続けていることを考えると、鋸岳の鋭さは「隆起する力」と「削る力」がせめぎ合った、いわば現在進行形の地形です。登っているあいだは岩と鎖のことしか頭にありませんでしたが、あのザクザクした白い砂も、尖った岩峰も、地球がこの山を削り続けている途中の姿だったわけです。難所だらけの山でしたが、足元の一つひとつが地形のでき方を語っていると思うと、苦労した記憶も少し違って見えてきます。
鋸岳は技術と経験を要する上級者向けの山です。挑む際は十分な装備と計画を。山の成り立ちに興味がわいたら、隣の甲斐駒ケ岳の地質や、日本の山とプレート運動の記事もあわせてどうぞ。ほかの登山記録は「登山記録カテゴリ」にまとめています。



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