磐梯山は、1888年(明治21年)の水蒸気噴火で北側の峰「小磐梯」が崩れ落ち、その土砂が川をせき止めて裏磐梯の湖沼群をつくった火山です。ふもとから見上げると整った形の山なのに、北側だけが大きくえぐれています。檜原湖も五色沼も、そのえぐれた分の土砂がつくった景色です。
要点は3つです。噴火の朝、山頂の北にあった小磐梯の北半分がまるごと崩れました。崩れた土砂は北のふもとへ流れ下って5つの村を埋め、川をせき止めました。せき止められた水が1〜2年でたまり、いまの湖と沼になりました。

磐梯山はなぜ表と裏で形が違うのか?
北側だけが崩れたからです。麓から見上げた磐梯山は、すっきりと裾を引いた整った形をしていました。会津の民謡で「宝の山」と歌われる姿です。
ところが北の裏磐梯側へ回ると、同じ山の山頂のすぐ下に、幅2km以上の巨大なくぼみが口を開けています。正面から撮った証明写真はきれいなのに、後頭部が大きくえぐれている、という状態です。このくぼみを、資料では形から「馬蹄形の火口」と呼びます。噴火で吹き飛んだ穴と、山が崩れ落ちた跡がひとつながりになった地形で、この記事では以下「崩壊跡」と呼びます。表の姿だけ見て帰ると、この山の半分しか見ていないことになります。

崩壊跡は、1888年7月15日の噴火でできました。噴火の前、山頂の北には「小磐梯」という峰がありました。内閣府の中央防災会議がまとめた報告書(以下、内閣府の報告書)によると、小磐梯の標高は1,750〜1,800mで、いまの主峰(大磐梯・1,816m)とほぼ同じ高さでした。磐梯山はかつて、似た高さの峰が南北に並ぶ山だったわけです。
磐梯山はどんな火山なのか
磐梯山は、東北地方を南北に貫く火山の列の上にあります。太平洋の海底をつくる岩の板が東北の下へもぐり込み、深さ100kmほどで岩が溶けてマグマが生まれます。そのマグマが地表に出てくる場所が帯状に並び、磐梯山も、すぐ東の安達太良山も、北の吾妻山もその列に乗っています。並び方の理屈は日本の活火山111の並び方の法則で、実際のデータを地図にして書きました。
産総研(産業技術総合研究所)が2023年に出した地質図によると、磐梯山はいくつもの峰が順番に積み上がってできた火山です。東側の櫛ヶ峰や赤埴山が古く、約25万年前ごろまでに活動を終えています。小磐梯は約6万〜5万年前にでき、主峰の大磐梯はそれより新しく、約4万6千年前以降に育ちました。明治に崩れたのは、2つの峰のうち古いほうでした。
| 時代 | できた峰・起きたこと |
|---|---|
| 約25万年前ごろまで | 東側の櫛ヶ峰・赤埴山などができる |
| 約6万〜5万年前 | 北側の小磐梯ができる |
| 約4万6千年前 | 南西側が大きく崩れ、猪苗代湖ができる |
| その後(大半は約3万年前まで) | 崩れた跡の中に主峰の大磐梯が育つ |
| 1888年 | 小磐梯の北半分が崩れ、裏磐梯の湖沼ができる |
そして磐梯山が崩れたのは明治が初めてではありません。同じ地質図によると、約4万6千年前にも山の南西側が大きく崩れ、その土砂が日橋川をせき止めて、磐梯山の南に広がる猪苗代湖ができたとされています。大山の北壁のように、大きな火山が崩れるのは珍しいことではなく、伯耆大山の地質でも同じ話を書きました。
北側が崩れて裏磐梯の湖ができ、南西側が崩れて猪苗代湖ができました。この山は、崩れるたびに麓に湖を置いていく癖があるようです。
1888年7月15日の朝、何が起きたのか?
地下の水が熱せられて爆発し、小磐梯の北半分が吹き飛んで崩れ落ちました。マグマが噴き出したのではなく、地下水が高温の岩に熱せられて一気に水蒸気になり、その圧力で山そのもの(山体)が破裂する噴火です。これを水蒸気噴火といいます。2014年の御嶽山の噴火と同じ型ですが、磐梯山では山がひとつ崩れるほどの規模になりました。
気象庁の日本活火山総覧と内閣府の報告書から、その朝の経過を並べると次のとおりです。
| 時刻 | 出来事 |
|---|---|
| 数日前から | 弱い地震が続く |
| 7時ごろ | 山が鳴り始める |
| 7時30分ごろ | 強い地震が3回 |
| 7時45分ごろ | 爆発。短時間に15〜20回くり返し、最後の一発は北へ抜けたと記録されている |
| 直後 | 火山灰まじりの爆風が横に走り、続いて崩れた山体が北のふもとへ流れ下る。その後、火山灰が降り、泥流が出る |
崩れた山体は、岩塊と土砂の巨大な流れになって北の谷を駆け下りました。山体がまるごと崩れて流れ下るこの現象を、岩屑なだれといいます。総覧によると速さは時速45〜77km、内閣府の報告書は平均で時速約80kmとしています。車で逃げても追いつかれる速さで、谷にあった5つの村の11の集落が埋まりました。

死者の数は資料によって461人と477人の2つがあります。461人は噴火直後の福島県の報告で、当初の行方不明者472人から、外出していて無事だった11人を差し引いた数です。477人は、その後に県が死者を一人ずつ名前で書き上げた調書の数で、内閣府の報告書はこちらを妥当としています。
崩れた量もはっきりしません。産総研の地質図は、噴火直後の測量で約12億m³、地形を復元した推定では5億〜8億m³と紹介しています。東京ドームに換算すると400杯から1,000杯で、推定によって2倍以上違います。気象庁の総覧は、崩れて積もった土砂の総量を15億m³としています。
| 項目 | 数値 | 出典 |
|---|---|---|
| 崩れた小磐梯の標高 | 1,750〜1,800m | 内閣府報告書 |
| 噴火の形式 | 水蒸気噴火 | 気象庁 |
| 崩れた量 | 5億〜12億m³(推定に幅あり) | 産総研 |
| 積もった土砂の総量 | 15億m³ | 気象庁 |
| 岩屑なだれの速さ | 時速45〜80km | 気象庁・内閣府報告書 |
| 土砂が覆った面積 | 約34km² | 産総研(Nakamura 1978) |
| 火口の大きさ | 東西約2.2km・南北約2km | 気象庁 |
| 死者 | 477人(461人とする資料もある) | 内閣府報告書 |
崩れた土砂が、北の谷を湖に変えた
崩れた土砂は谷を埋めて川をせき止め、湖と沼をつくりました。内閣府の報告書によると、土砂は檜原川・小野川・中津川などをせき止め、1〜2年のうちに檜原湖・小野川湖・秋元湖、そして五色沼などの小さな沼ができました。秋元湖は噴火から3か月もたたない1888年10月には水がいっぱいになり、あふれ出しています。檜原の集落は湖の底に沈み、住民は移転しました。
| 湖沼 | せき止められた川 |
|---|---|
| 檜原湖 | 檜原川など。旧檜原村の集落が湖底に沈んだ |
| 小野川湖 | 小野川 |
| 秋元湖 | 中津川など。1888年10月に満水になりあふれ出した |
| 五色沼など | 流れ山の間のくぼみに水がたまった |
先ほどの地形図で、赤い字で示した崩壊跡のまわりには、崖をあらわす細かいギザギザの記号が並んでいます。これが小磐梯の抜けた跡で、口は北を向いています。そこから北へ、檜原湖と小野川湖の間あたりまで、等高線が細かく乱れた土地が続きます。崩れた土砂が、大小の塊をでこぼこのまま残して積もった土地です。

このでこぼこの一つひとつを流れ山と呼びます。崩れた山体の大きな塊が、形を保ったまま運ばれて小山になったものです。内閣府の報告書には、当時の記録として「数百の小山および数万の小丘」とあり、いまの地形で見ても大きいものは長さ約200mあります。流れ山と流れ山の間のくぼみに水がたまったのが五色沼で、沼ごとに色が違うのは、溶けこんだ火山由来の成分や水深の違いによるものです。
内閣府の防災情報のページ「不屈の大地」は、この噴火で300の湖沼ができたとしています。当時の記録には「数十」「50か所」という数もあり、どこまでを沼と数えるかで大きく変わります。湖畔のペンションも、五色沼の遊歩道も、ほとんどが噴火で崩れた山の上に建っています。裏磐梯の観光地は、言ってみれば小磐梯の跡地に建っているわけです。
噴火直後の裏磐梯は、草木のない泥と岩の荒れ地でした。いまのように森に覆われたのは、明治43年(1910年)から実業家の遠藤現夢が10年以上かけて、アカマツを中心に約10万本を植えたことが大きいとされています。五色沼のほとりには、現夢が大正時代に建てた「磐梯山噴火災死之人碑」もあります。

八方台から登った日、崩壊跡は霧の向こうでした
今回は家族で、北西の八方台登山口から中ノ湯跡、弘法清水を経て山頂へ向かうルートを歩きました。八方台は裏磐梯側の登山口なので、崩壊跡を間近に見られると期待していました。ところがこの道は、崩壊跡の西の縁を回り込むように登っていきます。火口の底にある銅沼は通りません。
しかもこの日は朝から霧(山でいうガス)が出ていました。弘法清水から山頂へ向かう登りでは、木のない斜面が白い霧の中へ落ち込んでいくのが見えるだけでした。地形図で見ると、崩壊跡は登山道の左手(北東側)にあったはずですが、裏側から登ったのに肝心の崩れた壁は一度も見えない、という結果になりました。

救いは山頂でした。雲の海の切れ間から、北に檜原湖がのぞきました。島の多い細長い湖で、その東側にも水面がいくつか光っていました。冒頭の写真がそのときのものです。足元の山が崩した分で、あの湖ができています。
帰ってから、国土地理院の標高データで崩壊跡の深さを測ってみました。崩壊跡の底にある銅沼の水面付近は約1,114mです。噴火前の小磐梯の頂(1,750〜1,800m)から差し引くと640〜690mで、内閣府の報告書にある「小磐梯の頂が約650m低くなった」とおおむね合います。いまの山頂(1,816m)から測っても約700mの深さです。足元に700mの穴があったのに、霧のせいで一度ものぞけなかったことになります。次は晴れた日に、北の裏磐梯スキー場側から銅沼まで登って、崩れた跡の崖を下から見上げるつもりです。
| 比べたもの | 標高・高さの差 |
|---|---|
| 銅沼(崩壊跡の底)の標高 | 約1,114m |
| 噴火前の小磐梯の頂(1,750〜1,800m)との差 | 640〜690m |
| 内閣府の報告書:小磐梯の頂が低くなった量 | 約650m |
| いまの山頂(1,816m)との差 | 約700m |
いまの磐梯山は、また崩れるのか?
すぐに崩れる兆候は出ていません。気象庁の噴火警戒レベルは、2009年の運用開始から一貫してレベル1(活火山であることに留意)です。ただし気象庁の月ごとの解説資料によると、火山性の地震は2022年11月以降、やや多い状態が続いています。レベル1なので登山道の規制はなく、今回も普段どおり歩けました。地震の増減は、気象庁が毎月出している磐梯山の火山活動解説資料で誰でも確認できます。
磐梯山の表と裏の違いは、138年前のある朝の数分間でできました。ふもとから見上げてきれいだと思った形と、山頂から見下ろした湖は、その数分間の前と後です。
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